旅先でのエピソード

 

1.レールの上を走る典型的な人生はいや

 

僕が自転車で旅を始めたのは大学3年のとき。それまでは450ccのモーターサイクルに乗っていたのだから、ふつうの人とは逆行した形である。“モーター”をやめる利点は、自然に触れられるということ。木々の間に入れば、匂いをかげるし、鳥のさえずりも聞こえる。時速20kmだから視界は360度。その上、坂道があったり、自分が疲れていたり、天候が荒れたりすれば、とたんにしんどくなる。僕は、この自然を体全体で感じられる人間的な乗り物にぞっこん惚れ込んでしまった。日本中を走り回ってしまと、さらに未知なる世界に出かけたいという欲望が起きるのは当然のこと。大学卒業後、計測器会社に勤め始めたが、そのまま日本人の典型的な人生のレールの上を走り続けてしまうと、先はもう見えている。それは、未知なる場所へ行ってみたいという旅、究極的には僕の人生観に反するものである。断られたら会社を辞めればいいという、居直り的気持ちで1年間の休職願いを出したのは3年後だった。それがスンナリ通り、79年に20カ国、2万2、000kmのヨーロッパ一周をしてきた。しかし、ヨーロッパは僕が望んでいた未知なる世界ではなかった。水、食料、宿はどこにでもある。道路も良好で、未舗装路を見つけるのが難しいほど。日本とは異なる宗教、文化、風俗、習慣、言語に接することができたのは大きな経験とはいえ、総括してみると、もの足りなさを感じるものだった。こうして僕の目は、次の未知なる国々、とくに第三世界である、アフリカや中南米に向きはじめていた。復職してから、貯金、英語、スペイン語、各国の歴史の勉強、そしてトレーニング(自転車レースやロードレース)を続けた。この次は、日程に追われることのない自由な旅をしたいと思っていたので、‘82年に会社をやめるときにも、未練は感じなかったし、大きな決断も必要としなかった。そして、どうせなら世界一周をと計画は大きくなった。’82年10月、日本を出発。香港でストップオーバーしてオーストラリアのシドニーに着く。南半球は春、ここは真夏といってもいい30度C以上のかわいた天候。砂漠の中では最高48度Cも経験。数100km人家のない所も多く、狭い日本と比べると、距離に対する感覚のでかいことったらない。ニュージーランドに移ったのは‘83年3月。南下するにつれ、秋から冬へと季節は変わり、夏用の寝袋では役立たず、毎朝寒さで目覚めていた。しかし、やたらと羊が多く、いたる所でのどかにさせられた。ハワイをへて、5月にアメリカ本土へ。ヨセミテ、グランドキャニオン、イエローストーンの雄大な景色には、目をみはらされた。またカナダのジャスパーとバンフ間はカナディアンロッキーの中のハイライトで、山々、氷河、森林、湖が絶え間なく続き、絶景のオンパレードだった。しかし熊の生息地が多く、野宿するには、炊事とテント設営を別の場所にし、食料は木の上にぶら下げ、熊に襲われたり、食料をとられないようにしなければいけなかった。恐ろしいというより、面倒臭いなぁ、というのがそのときの気持ちだった。

2.氷点下10度の中、ヒゲが凍ってチクチク

 

カナダ横断を終え、ニューヨークから南下を始めたのは12月。このとき、大寒波が北米を襲った。氷点下10度Cの中、ヒゲが凍り、チクチクする痛みの中をひた走ったことは忘れられない。いまは最悪の中で、これ以上絶対に悪くなるはずない。これからはよくなるだけだという、大凶のおみくじを引いたときのような開き直りの気持ちで、轍を刻み続けていた。自分に対して厳しくできる強い意志を持ち、忍耐がなければ、長い長い旅はできないだろう。‘84年2月にメキシコへ入ると、今度は暑い。ユカタン半島のメリダで、大きな虫食いの親知らずを抜歯したら、激しい腰痛、頭痛が起こり、1週間ほどベッドに横たわる毎日だった。抜歯後の穴がふさがると、すべて快調。4月、ベリーズをへてグアテマラ入り。ジャングルの中の岩のゴツゴツ露出した悪路では、1日60kmしか走れず、10kmに1回の割合でパンクした。しかし、マヤ文明最大、最古のティカルの遺跡のピラミッドに登り、鳥のさえずりを聞きながら、はてしなく続く樹海を眺めていたら、そんな苦労は吹き飛んでしまった。5月、エルサルバドル入り。パンアメリカンハイウェイを走っていれば、ゲリラの心配はない、と聞いていた。ところが道路上の要所には、銃を持った政府軍兵士が立っていて異様。ある村で休憩中、僕がいましがた通ってきた近くの道路上で、突然パパパーンという音。ゲリラとの銃撃戦が始まったのだ。まずいことになった……。どうしよう……、と思っているうち援護軍が来たため、ゲリラは去った。その後、ホンジュラスとの国境へ向けて、パンクだけはしないでくれと、ひたすら祈りながら走った。ニカラグアも同様、内戦で緊張しての入国だったが、何事もなくすんだ。5倍ほどのヤミ値があり、最高級のレストランでのフルコースの夕食が、たったの800円だった。6月、コスタリカをへてパナマへ。パナマ紙幣というのはなく、米ドルをそのまま使用しているので、ヤミ両替ばかりの南米へ向かうため、ここでドル現金を大量に用意した。忘れもしない7月2日。コロンビアの首都ボゴタ市を散歩していたとき、突然、蛮刀を持った3人組の白昼強盗に襲われ、なぐる、蹴るの暴行を受け危く命を落としそうになった。幸い通行人に助けられ、腕時計の盗難、メガネの破損、それに打撲ですんだが、警察での“明日来てくれないか。なにしろ今日は祭日で上司がいないんだ。被害届けは明日にしてくれ”という返事には、ただあきれるばかりだった。同じく7月。エクアドルの赤道碑近くで、走行距離が赤道一周に相当する4万kmに到達。絶対に忘れ得ぬ思い出となった。8月、ペルー入り。太平洋岸沿いの国道を南下。この道、フンボルト海流の影響でいつも南風、つまり向かい風に悩まされた。10月のアンデス山脈越えでは、標高4,600m地点を通る。下痢、頭痛という高山病にかかり、次の町までの280kmに6日間かかった。そしてチチカカ湖沿いにボリビアへ入国。年間のインフレ1000%というひどさのため、ヤミ両替で20ドル札を手渡すと、なんとボリビア紙幣が300枚以上戻ってきた。当然サイフは役立たずで、バッグの中にそのまま放り込んだ。この国はアンデス山脈の中の国で、標高3〜4,000mの悪路を酸素不足のため、ハァーハァーあえぎながら走った。


3.毎日飽きもせず500gのステーキを食べ続けた

 

12月、アルゼンチン入国。牛肉が1kg300円という安さに加え、やわらかくておいしいため、毎日飽きずに500gのステーキを食べ続けていた。‘85年3月、フエゴ島では時速100kmという暴風に襲われ、平地で押していても突風がくると止まってしまうという経験もした。チリ、ウルグアイをはさんで計3回アルゼンチンに入国した、後、5月パラグアイ入り。ストロエスネル大統領の独裁が31年続いていたため、人々は警察・軍隊を恐れ、活気がなく異様だった。6月、ブラジル入り。ペンション1泊200円、日本食300円と安いため、日本を出て以来毎日日本食ばかりこんなに腹一杯食べられたのは、サンパウロぐらいのもの。日本人の住むリベルダーデ地区に行けば、日本の新聞、映画まで揃っていてなんでも日本語ですむため、日本に戻ったような感じで、疲れた体をのんびりと休められた。サンパウロからニューヨークをへて、イギリスのロンドンへ飛んだのが’85年8月。なにごとにもおおらかだった南米の後、この国を訪れると、過去の栄光にこだわり、細かいことにうるさく、融通がきかないコチコチ頭という悪い面ばかりが目につき、しばらく滅入っていた。‘79年に訪れたときには、規律をよく守るしっかりした国民と思っていたのだから、自分の経験によって印象は大きく変わるものだ。スコットランド、北アイルランドをへてアイルランドへ。アイルランド訛りの英語を話す素朴な人々、ワラぶき屋根の家々、牧草地を仕切る石積みの柵、小さな古城が点在し、まったくのどかな気分にさせられる。サイクリストのとってはうれしい国だ。9月、ドーバー海峡を渡ってフランス入り。2泊目のYHで知り合ったイブは、近々アフリカ、アジアへ自転車で出かけるという。そのため僕に興味をもち、結局パリの彼のアパートに1ヵ月半居候させてもらえた。僕は旅のエピソードを語ったりして助言をし、イブはフランス語を教えてくれたりと、その束の間の休暇は有意義だった。あまりパリに長居をしすぎたため、11月のイタリアへのアルプス越えは雪の中。足の指先が凍傷にかかり、その後1ヵ月間感覚がなかった。サンマリノ、バチカンを回りさらに南下。シシリー島で野宿したときには、いまの日本では死語になっている回虫が出てきてビックリした。’86年1月、アドリア海をフェリーで渡り、ギリシャ入り。ペロポネソス半島の山岳地帯では、ロバに乗ってのんびりと荷を運ぶ老婆がアイサツしてきた。思わず100年ほどタイムスリップしたような感じになった。そして冬を避けるためエジプトへ。僕にとっての初めてのイスラムの国。ミミズののたくったような文字はサッパリ分からなかった。しかし、ナイル川に沈む夕陽が青い空をオレンジ色、そして暗黒へと染めてゆく様子を目前にして、僕は人の力でできた巨大な建造物など足元にさえ及ばない、自然の偉大さを感じずにはいられなかった。ましてや、人間の一生なんて……。自分がいかに小さな存在かを、改めて謙虚に認めざるを得なかった。

4.理想の人ホリーに出会えた幸せ

 

3月、イスラエル入り。死海、エルサレム、キブツ……。いろいろな思い出はあるが、最大の出来事はホリーとの出会い。アメリカンスクールの教師で、メキシコ、日本でも教えたことがある。旅、スポーツが大好き、すべてに行動的という、僕の理想のようなホリーに出会えたのはラッキーだった。4月、親日的な人々とよく出会ったトルコへ。イスタンブールは世界の中で一番好きな町。ガラタ橋、グランド・バザール、ブルーモスク、トプカピ宮殿……。ただぶらついているだけで楽しかった。ただ、イスタンブール滞在中に起こった、1,000km北のチェルノブイリ電子発電所での事故は、これから東欧へ向かおうとしていた矢先のため、ショックだった。5月、30時間の通過ビザしかもらえず、ひたすら走ったブルガリア、物資の豊富なユーゴスラビア、1日10ドルの強制両替のあったルーマニア、東欧の中では一番、人々が生活を楽しんでいるハンガリーへと回る。6月、物価高でたまげたオーストラリアから、1日14ドルの強制両替のチェコスロバキアへ高速道路を自転車で走っていたとき、見事つかまり10ドルの罰金を食らったことは、いまでは笑い話。西ドイツのハンブルグへは、あのホリーが、夏休みを利用して1ヵ月僕と、北欧をペアランしようと、自転車を持ってやって来た。デンマーク、スウェーデン、フィンランドと車の騒音を避けての裏道ののんびりランは、ふたりともとても満足のいくものだった。8月、ホリーと別れて、フィンランドを北上しノルウェーへ。太陽は、西の空へストンと落ちず、北へ向かってジンワリと沈んでいくのが面白い。白夜はすでに終わったとはいえ、完全に暗くなるのは、ほんの1〜2時間。ヨーロッパ最北端のノールカップは、気温10度Cの霧の中でなにも見えなかった。フィヨルドのアップダウンはイヤというほど続いたが、道路わきに豊富に実るラズベリーは最高のプレゼントだった。9月、自転車が国土中を縦横に走っているオランダへ。国土がほとんど平坦のため、誰でも気軽に乗れることが、自転車が市民権を得ている、大きな理由のひとつだろう。そして10月、ベルギー、フランスをへて、スペインへ。なだらかな農耕地の広がる、ラマンチャ地方のずんぐりとした白い風車はドンキホーテがいまにも出てきそうな雰囲気を漂わせていた。グラナダのアルハンブラ宮殿内の壁や柱には、イスラム様式の模様が刻み込まれていて、キリスト教寺院を見慣れた目には新鮮に写った。12月、クリスマス休暇を利用して会いにきてくれたホリーと、モロッコをバス、列車で回る。はかないひとときを楽しくすごそうと思っていたのに、一部の観光客ズレした人々に、嫌な思いをさせられる。勝手につきまとってきてガイド料を要求する者、高額紙幣と小額紙幣をすり替え、約2倍もの料金を要求した国営バスのチケット売り。‘87年1月、アルジェリア入国。地中海から2,000km南下したサハラ砂漠の中のオアシス、タマンラセットはアルジェリア最南端の町。そこから国境までの400kmは360度、砂しか見えない本当の砂漠。普段の翼号(梶さんの愛車)に16リットルの水と2週間の食料を積み、意気込んで出発したものの、翼号は重たすぎ、やわらかい砂地にズボズボ沈み、押すのも辛い。また他の車で旅行者からの水の補給もままならず、結局6日間、220km進んだ所で気力、体力ともはてた。偶然通りかかったランドクルーザーに拾われて、ニジェールのアガデスの運ばれた。首都ニアメイでは、海外青年協力隊員の所で、お世話になった。休職か退職してきた、それなりの覚悟をしてきた人たちばかりなので、僕と共通するところがあり、雑談していても楽しかった。ブルキナ・ファソを通り、ギニア湾沿いに面したトーゴの首都ロメに突いたのは5月。ザイールに飛行機でナイジェリア、カメルーンを経由そて中央アフリカのバンギまで飛んだ。そこで、ようやくビザ取得でザイール入り。ザイール川の、飲料水を積んでいない不衛生な船旅の後、ピグミー族が住むジャングルの中の悪路を走り続ける。いままで自分の体と意志は強靭だと信じ込んでいたのに、それが見事に“崩壊”してしまったのは忘れもしない7月18日。電気、水道、病院なしというカンヤバヨンガでのこと。38〜40度Cの高熱とときどき襲う体の芯からの悪寒が始まった。来てくれた医者はマラリアだといったが、彼の持っていたものは体温計と血圧計のみ。ケツに何回も注射をされたが、その針が新品のものかどうかも分からず、エイズ感染したらどうしようと、ボーッと考えていた。激しい頭痛で意識はもうろう、ベッドに横たわっているのも苦痛。嘔吐、下痢まで併発。遺書さえ書けないほど、体はいうことをきかなかった。医者は山場と思ったのだろう。4日目の夜、どこで入手したのか、点滴を開始してくれた。お陰で翌朝、平熱まで下がったが、体がなんとか動けるようになるまで1週間の安静を余儀なくされた。その後、11kgも減量していた体でブルンディ、ルワンダ、ウガンダをへてケニヤのナイロビまでの1,660km走り続けたけれど、疲労困ぱいの毎日だった。

5.完璧はダメージの後にホリーの笑顔があった

 

ナイロビに就いて5日目、宿で倒れて病院に運ばれた。幸いホリーが、アフリカ、アジアと僕の世界一周を一緒に終了させたいと、自転車を持ってやってきた。しかし、僕の病気がマラリアから引き起こされた肝炎と分かり、当分安静にしていなければいけなくなった。ホリーに2ヵ月看病してもらったが、自転車に乗れるようになるまでは回復しなかった。そのため、11月からタンザニア、マラウィ、レソト、南アフリカ、ボツワナ、ジンバブエ、ザンビアとバス・列車・飛行機、そしてヒッチでホリーと一緒に回った。‘88年4月、ナイロビに戻った。そこで医師からの宣告。「自転車での旅はやめたほうがいい。無理すると肝臓に永久的なダメージを受けるかもしれない」不思議と僕は、それを冷静に聞いていた。悔しいとは思ったが、大きなショックではなかった。何事も引き際が肝心。ナイロビで旅が終わるのではなくて、旅を一時中断するというように考えたら、それでいいじゃないか。そう思うと気が楽になった。ホリーとも、お陰でよく知り合えた。苦しい旅を一緒に乗り越えてきたのだから、これからはどんな困難があっても大丈夫だろう。スーダン、エジプト、イタリア、イギリスをへてアメリカに渡り、ホリーの故郷ペンシルバニア州で結婚式を挙げたのは7月30日だった。質素だけど楽しめる披露宴ということで、公園でフォークダンスやスポーツをしながらの飲食会を催すことにした。教会からみんなの待つ公園へ、僕たちはタンデム自転車で乗りつけた。空き缶をガラガラ引きずり、ふたりとも首から「Just MARRIED」の札を下げ、ホリーはさらに、ウェディングベールをかぶっての登場は、みんなをビックリ仰天させ、拍手かっさいを浴びるのに十分な演出だった。’88年9月、成田に到着。6年前日本を出たときには、翼号だけが僕の相棒で、まさか嫁さんを連れての帰国になるとは、夢にも思ってなかった。地球上をキャンバスにして89,370km、69ヶ国を走り回った翼号は、いま休養している。旅は終わったわけではない。新しく加わった相棒とアジアの旅を開始するまで、旅はしばらくの間中断しているだけである。6年の間には、辛いこと、悲しいこと、楽しいこと、うれしいことが数多くあった。しかし、脳裏に浮かんでくるのは、一緒に楽しみ喜んだ各国の友人たちの顔ばかりである。彼らが目の前にすぐ現れて、「ハーイ・マサオ」と呼びかけてきても不思議はないほど、鮮明に記憶している。嫌なことはすぐ忘れ、よかったことばかりずっと覚えていられたからこそ、希望を持って旅を続けられたのだと思う。航空網が発達し、10数時間で世界のあちこちへ行けてしまうこの現代、海外への旅というのは大きな夢ではない。日本国内を移動するような気軽さで、宗教、文化、自然、風俗、習慣、言語の異なる国へと簡単に出かけられる。しかし、初めての国へ行けば誰でも大なり小なりのカルチャーショックは受けるもの。それらを五感でもって素直に受けとめて、少しでも理解しようと努めれば努めるほど、旅は楽しくなるものだ。

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