地球と語った2155日(総集編)

 

1.どうせ退職するなら世界一周を
 

モーターサイクルで日本一周の後、エンジンに頼る旅がいやにな り、自転車に転向」したのが‘74年、22歳の時だった。そして社会人になってからも、休日を利用して日本各地を走ったし、‘79年には休職してヨーロッパ一周もしました。“次は世界一周を”と志したのはその旅を終えてからである。ヨーロッパの旅では、カルチャーショックは少なく、“なんだ、日本と同じじゃないか”というのが率直な感想だったのだ。文化レベルも高く、文明度もほぼ同じ、食べ物にさほどびっくりするような差があるわけでなく、そこへ行くと“第三世界”は、まだまだ刺激があって、旅をする価値があるだろう。これはまず、手始めに南米に出かけよう---。当初の思いはこんな具合だった。しかし、スペイン語と英語を習い、かつ資金をためて準備をするうちに、“どうせ退職して出かけるんだ、南米だけでなくアフリカまで、いや、こうなったら何年かかるかわからないんだ、世界一周を!”と気持ちが移っていったのである。その間にも、会社との往復約34kmを自転車通勤し、自分でタイムを計ったりしていた。‘82年にはなるしまフレンド会に入会、ロードレースも経験した。最初のレースで、駆け引きも何も知らず、ただガムシャラに走ったのだが3位に入賞。その後もほとんどのレースで入賞し、さらに脚力に自信をつけた。そして、エイメイにオーダーしたクロモリブレーン590mmフレームにサンツアータイヤコンペ、スズキテクノ、フジタサドル、三ッ星タイヤ、キャットアイ、日本ダンロップも各社から提供してもらったパーツ装備を持って、翼号とともに日本を出発したのは、‘82年10月13日。オーストラリアをスタート地点として、6年間、世界69カ国、69000kmの旅が始まった。‘88年9月5日、6年ぶりに日本に戻ってきた。自転車の名前をもらったオイの翼は、出発当時1歳の誕生日を迎えたばかりだったのに、もう7歳。30歳だった当の本人も36歳になっていた。夢中で走った6年間だったが、実は旅はもっと長くなる予定だった。走るのを断念した時点で、すでにインドへの渡航準備が整っていたのである。しかし、旅の継続は無理、という医師の診断に素直に従ってよかったと、今になって思う。病み上がりの体でインドを走っていたら、今度こそ生きて帰れなかったかも知れない。健康な人でさえ、インドの旅はとかくの事がおきるそうだから。

 

2.何かがボクを守っていてくれる
 

さて、ここで改めて旅を振り返ってみると、よくもまあ無事に帰って来たものだと、今更ながら感慨深いものがある。日頃は神も仏も意識せずに暮らしているボクだが、旅の間には"何か"を心に感じたことが1度や2度ではない。それを神と呼ぶかどうかはべつとしても。オーストラリアは真夏だった。エアーズロックまでの砂漠の中の一本道。道のりは170km余りだが、まだ日が高いうちに水を飲み尽くしてしまい、フラフラになったあげく、やっと出会った人に水や食べ物を分けてもらった時は、"ああ、何かが自分を守っていてくれる"という気持ちを初めて意識したものだ。人は単に"ツイてる"と言うだけかも知れないが。それから、エルサルバドルの小さな村で休憩中、突然、近くでゲリラと政府軍との銃撃戦が始まり、びっくり仰天したことがある。大慌てで走りはじめたものの、パンクで立ち往生しようものなら、"一巻の終わり"になりかねない。神よ当るな、翼号よパンクだけはしてくれるなと祈りつつ、必死でホンジェラスとの国境まで走った。同じ国民が互いに撃ち合う銃撃戦など、日本では信じられないような、まさにテレビ映画そのままの光景であったが、もちろん映画とは大違い。その後のアフリカとは別の意味でまさに"第三世界"であった。まだあった。アフリカはザイールでマラリアにかかった時だ。ピグミー族やヒヒの出没するジャングル地帯を走行中、電気も水道も、まして病院などなし、という町で発病したのだ。やっと往診に来た医者が持っていたものいえば、体温計と血圧計のみ。38度から40度の高熱が4日間続き、嘔吐と下痢を繰り返し、身動きままならなくなった時には、もう死ぬかもしれない、とさえ思った。ボンヤリした頭の中で"こんな所で死んだら、あとどうなるんだろうか " などとも考えていた。今から考えると悪性のマラリアだったのではないか。旅の間にマラリアにかかった人の経験談を聞いてはいたが、ふつうは半日位で熱が下がるというのである。しかし、悪性にかかると、かなり死亡率が高いということだから、ボクの場合、悪性であったような気がする。4日目の夜からの点滴のおかげだろう。5日目に入って、ようやく熱は下がったが、その間に体重が 11kgも減ってしまっていた。どうやら助かったらしい、と自分で分かったときには、何かが守ってくれた、と感謝せずにはいられなかった。

 

3.自然の驚異の前に立ち尽くす
 

もっとも感動した場所といえばグランドキャニオン(アメリカ)とアルゼンチン湖をあげることができる。グランドキャニオン見物のためには、林の中の一本道を登っていかなければならない。標高は2000kmを超えているので、軽い高山病にかかり、身体もだるくて苦しい。しかし、やっとマザーポイントという地点にたどりつき、呼吸を整えながらフェンスの下を見ると、そこには、ボクが今だかつて見た事のない世界が果てしなく広がっていたのだ。ちょうど、夕刻だった。赤茶色のグランドキャニオンは、さらにその色を鮮やかにして、ボクの心まで真っ赤に染めあげたのだ。1000万年という、気の遠くなるような年月が築いたこの峡谷のこそ“驚異”という言葉を贈りたいと、ボクは息をのんで立ち尽くしたまま思ったものだ。“時が作り上げた驚異”はアルゼンチン湖と周辺の氷河も同様である。水晶の結晶のように、柱状になった氷河が連なって、アンデス山脈のかなたからアルゼンチン湖に向かって押し寄せて来ているのだ。湖面から80〜100mぐらいあるよいう氷河の絶壁の、その奥底からは繊細な青い光が放たれている。その汚れない、まさに神秘の光に見とれて声もないボクたちの前で、突然、巨大な結晶の一端がゴーッ、ガラガラというごう音とともに、ゆっくりとエメラルドグリーンの湖面に崩れ落ちていった。まるで、スローモーションフィルムを見ているようだった。これほど見事に演出されたシーンがあるだろう歓声と、その後にくるため息と、そして沈黙。このツアーで親しくなったイスラエル人のビッキーとボクは、ただただ顔を見合わせ、ため息をつき、うなずき合うのみ。この時は禁を破って、遊歩道の柵を乗り越え、湖面まで下って行ったのだが、あっという間に時が過ぎ去っていった。ところで、この時知り合ったビッキーを、1年半後、イスラエルを訪れた時にたずね、ホリーと知り合ったのだから、人の縁というものは、実に不思議だと思う。知り合って、意気投合。出発の予定を変更して3週間も滞在してしまったのだが、あの時の別れほど胸が痛んだことはなかった。

 

4.発展途上国では宿に泊まる方が安全

 

今回の旅の訪問国69カ国、自転車での走行距離89,370km。フレームはそれにもかかわらず、トラブルなしで、さすがエイメイと製作者に感謝している。全走行中、交換しなかったのは、このフレームとキャリア、サドル、シートポスト、バッグ類のみ。ほかのパーツはその間3回、大幅に交換した。サドルは常にサドルオイルを携帯して、手入れをしていたため、ボクの尻にスッポリと納まり、今では愛着のあるもののひとつである。バッグは直射日光による痛みが激しい。色はあせ、ほつれや孔も生じてきたが、その都度修繕をしてきた。訪れた国々の国旗のワッペンを記念に縫い付けてきたため、これまた愛着を感じている。タイヤは、前後合わせて42本使った。パーツを送ってもらうにしても、発展途上国では途中紛失してしまったり、また受領時にべらぼうな税金を取られるため、いつ、どこで受け取ろうかいつも悩まされていた。物価の高い国=治安の良い国、物価の安い国=治安の悪い国という例が多いので、必然的に野宿は先進国が多く、発展途上国では安宿に泊まることが多かった。設営容易なドームテント、世界どこでも燃料の買えるガソリンストーブ、それに羽毛の最高級の寝袋があれば、どんな天候でもキャンプは可能となる。費用は出発前に貯めた370万円とサイクルスポーツから原稿料で途中働かずに旅に専念できた。それでも、計画通りに行かないのが自転車の旅。それでも、なお実線の旅を続けたのがボクの旅。結局、世界を回るのに6年間かかったのだから、やはり世界は広いと思う。今日はどんな人間に会えるだろうか? 今日はどこで眠るのだろうか? 次の町、次の国はどんなところなのだろうか? と、いつもボクは考えていた。未知なるものに対する好奇心が、ボクのこの旅を継続させてくれたに違いない。苦しい事、悲しい時があっても、“明日は何かいいことがあるだろう”と信じる気持ちがある限り、旅は続けられる。最後に、このページをお借りして、旅のサポートをして下さったスポンサー各社、および世界各地で親切にして下さった方たちに、厚く御礼を申上げます。

 

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